
探偵事務所の扉を叩く依頼者の顔は、一様ではない。怒り、悲しみ、不安、そしてほんの少しの希望。今回、私の事務所「赤坂アーガス」を訪れたのは、佐藤葵さん(仮名・30歳)。結婚5年目、お子さんはいない。彼女の口から語られたのは、日常に潜む些細な違和感から、やがて確信へと変わっていく夫への疑惑だった。そして、彼女はある「予感」を抱いていた。
違和感のパズルピース – 夫のスマホに現れた「理想の彼」
「夫の様子がおかしい、と感じ始めたのは…そうですね、もう三ヶ月ほど前になるでしょうか」
探偵事務所の応接室で、佐藤葵さん(仮名・30歳)は、カップに注がれた紅茶の湯気をぼんやりと見つめながら、記憶の糸をたぐるように、ゆっくりと、しかし一言一言に重みを込めて語り始めた。彼女の声は、長く抑え込んできた感情のせいか、微かに震えているように聞こえた。夫である健太さん(仮名・32歳)は、結婚して5年、葵さんの知る限り、実直で、どちらかと言えば朴訥とした温厚な性格。派手なことを好まず、家庭を大切にする、絵に描いたような「良き夫」だった。これまで、夫婦の間に大きな波風が立ったことなど一度もなかったし、葵さん自身も、この穏やかな日常に深い満足感を覚えていた。だからこそ、その「変化」は、静かな水面に投じられた小石のように、じわじわと波紋を広げていったのだ。
すべての始まりは、ある日の夕食後、何気なく健太さんのSNSアカウントを覗いた時のことだった。いつもなら、少しぎこちない笑顔の、見慣れた健太さん本人の写真が設定されているはずのプロフィール画像が、全く見覚えのないものに変わっていた。それは、どこか健太さんの面影を残しつつも、明らかに彼ではない、線の細い、涼しげな目元をした「アニメ風のイケメン自画像」だった。色素の薄い髪、少し憂いを帯びた表情、現実の健太さんからは想像もつかない、どこかミステリアスな雰囲気を纏ったそのイラストは、まるで少女漫画の登場人物のようだった。
「え? 何これ…」。思わず声に出してしまった葵さんに、リビングでくつろいでいた健太さんは、一瞬肩を揺らして振り返ったが、すぐに何事もなかったかのように視線を自分のスマートフォンに戻した。
「最初は、本当に何かの冗談か、あるいは流行りの新しい画像加工アプリでも試しているのかな、くらいにしか思わなかったんです。夫もそういう新しいもの、嫌いじゃないですし。だから、その時は『新しいアイコン、なかなかイケメンじゃない?』なんて軽口を叩いて、それで終わりにしたんです。夫も『だろ?』なんて、少し得意げに笑っていましたし…」
しかし、その「冗談」は、一向に元に戻る気配を見せなかった。そして、その日から、健太さんの行動には、これまでには見られなかった奇妙な点が、まるでジグソーパズルのピースが一つ、また一つと現れるように、次々と葵さんの目に付くようになったのだ。
最も顕著だったのは、スマートフォンとの接し方だった。以前はリビングのテーブルに無造作に置かれていたり、葵さんが「ちょっと貸して」と言えば気軽に渡してくれたりしたスマートフォンが、今では文字通り肌身離さず、まるで貴重品のように扱われるようになった。食事中もテーブルの端に置き、通知音が鳴るたびに、葵さんの視線を気にするように素早く画面を確認する。夜、二人でリビングで同じテレビ番組を見ていても、健太さんの意識は明らかに手元の小さな画面に集中していた。指先が何かを熱心に打ち込み、時折、ふっと口元が緩む。葵さんが番組の感想を話しかけても、「うん」「ああ、そうだね」といった、どこか上の空の返事しか返ってこない。その視線は、決して葵さんと合おうとはしなかった。まるで、葵さんの存在がそこにはないかのように。
些細な変化。傍から見れば、現代人によくあるスマートフォンへの没頭、と片付けられてしまうかもしれない。だが、毎日顔を合わせ、同じ空間で生活を共にする夫婦にとって、それは見過ごすことのできない、明らかな「断絶」の始まりを予感させるパズルピースだった。リビングには同じようにテレビの音が流れ、同じソファに座っているはずなのに、葵さんと健太さんの間には、目に見えない透明な壁がそびえ立っているような、息苦しい感覚があった。
「さすがに、これはおかしい…」。募る不安を打ち消したくて、葵さんはある晩、勇気を出して健太さんに尋ねてみた。「ねえ、あなた。最近、何かすごくハマってることでもあるの? いつもスマホばかり見てるけど…」。努めて平静を装ったつもりだったが、声が少し震えてしまったかもしれない。健太さんは一瞬、びくりとしたように動きを止め、葵さんの方を見た。その目には、ほんの一瞬だが、焦りのような色が浮かんだように見えた。しかし、彼はすぐにいつもの人の良さそうな笑顔を作り、「いや、別に大したことじゃないよ。ちょっとした息抜き、気分転換みたいなものだからさ」と、曖昧に笑って誤魔化した。その笑顔が、以前の彼が向けてくれた屈託のない笑顔とはまるで違う、何か薄い膜を一枚隔てたような、よそよそしいものに感じられて、葵さんの胸はチクリと痛んだ。まるで、大切な何かを隠している子供のような、その不自然な笑顔が、かえって葵さんの疑念を深くする結果となった。
「あの、アニメ風のアイコン…あれが、夫にとっての『理想の姿』だったんでしょうか。それとも、現実の私ではない、どこか別の世界の誰かに見せたい『もう一人の彼』だったのかもしれません…」。葵さんの声には、やり場のない悲しみと、夫への不信感が滲んでいた。この時、彼女の心の中に蒔かれた小さな不安の種は、健太さんの不可解な言動という名の水を与えられ、暗い土壌の中で静かに、しかし確実に芽を出し、その根を深く、広く張り巡らせ始めていた。それはまだ、ぼんやりとした輪郭しか持たない、正体不明の怪物のような不安だったが、確実に葵さんの心を蝕み始めていたのだ。
そして、その不安の影は、日を追うごとに色濃く、大きく成長していくことになる。健太さんの帰宅時間が徐々に遅くなり始めたのは、ちょうどその頃からだった。
深まる疑惑の影 – 「残業」と「新しい趣味」の不協和音

健太さんの不可解な「変化」の波は、SNSのプロフィール画像というデジタルな世界から、夫婦の共有するリアルな日常空間へと、容赦なく浸食してきた。それは、まるで静かに進行する病のように、葵さんの心をじわじわと蝕んでいった。以前の健太さんであれば、特別な繁忙期でもない限り、定時で「ただいま」と玄関のドアを開けるのが常だった。葵さんが夕食の準備をしていると、キッチンにひょっこり顔を出し、「何か手伝うことある?」と声をかけてくれる、そんな何気ない日常が当たり前だったのだ。しかし、アニメ風アイコンの出現と時を同じくして、彼の帰宅時間は目に見えて遅くなり始めた。
「ごめん、今日は急な残業が入っちゃって」「悪い、課の連中と軽く一杯だけ付き合ってくる」――そういった連絡が、LINEで短く送られてくる頻度が格段に増えた。最初は「仕事が大変なんだな」「付き合いも大切だよね」と自分に言い聞かせ、健太さんの体を気遣う言葉を返していた葵さんだったが、その「残業」や「飲み会」があまりにも常態化してくると、さすがに割り切れないものが胸に渦巻き始める。特に、以前は週末に持ち越すことなど滅多になかった仕事が、「休日出勤になった」という名目で、土曜や日曜の貴重な夫婦の時間までも奪っていくようになった時、葵さんの胸のざわめきは、もはや無視できないほどの大きさになっていた。仕事熱心なのは素晴らしいことだ、夫を信じなければ。そう頭では理解しようとしても、心がどうしても追いつかない。まるで、健太さんが意図的に自分との時間を避けているのではないか、そんな疑念すら頭をよぎるようになっていた。
そんなある日のこと、洗濯物を取り込んでいた葵さんの鼻を、ふと、これまで嗅いだことのない微かな香りが掠めた。それは、健太さんのワイシャツから漂ってくる、ほんのりと甘く、どこかパウダリーなフローラル系の香りだった。葵さんの家で使っている洗濯洗剤や柔軟剤は、香りの強いものが苦手な健太さんの意向もあって、ずっと無香料タイプのものを選んでいた。だからこそ、その馴染みのない香りは、葵さんの心に小さな棘のように突き刺さった。「あれ…? この匂い、何だろう…」。思わずワイシャツを鼻に近づけ、くんくんと匂いを嗅いでみる。間違いなく、自分の家のものではない。かといって、職場の同僚の香りが移ったにしては、妙にパーソナルな、親密さを感じさせる香りだった。問い詰めるべきか、いや、でも確証もないのに疑うのは…。逡巡の末、葵さんは何も言えなかった。しかし、その甘い香りは、まるで不吉な予兆のように、その後も葵さんの記憶の片隅にこびりついて離れなかった。そして、その香りは、時折、健太さんが帰宅した際に、彼の髪やジャケットからも微かに感じられることがあったのだ。
さらに追い打ちをかけるように、健太さんはある日、どこか照れ臭そうに、しかし隠しきれない高揚感を漂わせながら、「実はさ、最近、友人に勧められて新しい趣味を始めたんだ」と切り出した。葵さんは、一瞬、夫の口から久しぶりに聞く前向きな話題に、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。「へえ、そうなの? 何を始めたの?」。興味津々で尋ねる葵さんに対し、健太さんは「いや、それがさ、まだ本当に始めたばかりで、全然上手くないから。もうちょっと形になったら、ちゃんと教えるよ」と、いつものようにはぐらかすような笑みを浮かべるだけだった。その笑顔が、以前の彼ならもっと素直に喜びを分かち合ってくれたはずなのに、と思うと、葵さんの胸には再び鉛のような重りが沈み込むのだった。
それと並行して、健太さんの身なりにも明らかな変化が現れ始めた。以前は、葵さんが選んだり、一緒に買いに行ったりした、落ち着いた色合いのベーシックなデザインの服を好んで着ていた彼が、最近では、どこで買ってきたのか、少し細身のシルエットの、流行を意識したような若者向けのブランドのシャツやジャケットを身につけるようになった。髪型も、以前より少し短く、ワックスで軽く動きを出すようなスタイルに変わっていた。まるで、SNSのプロフィールに設定している、あの線の細いアニメ風のイケメンキャラクターに、現実の自分自身を少しでも近づけようと努力しているかのようだった。その変化は、30代前半の男性としては決して不自然ではないのかもしれない。しかし、これまでの健太さんの堅実なイメージとはあまりにもかけ離れており、葵さんの目には、どこか痛々しく、そして不穏なものとして映った。まるで、誰か特定の人物の好みに合わせようとしているかのような、そんな痛々しさだった。
そして、葵さんの心に決定的な楔を打ち込む出来事が起こる。ある週末の午後、健太さんが「趣味の集まりがあるから」と出かけた後、ふと彼の書斎の掃除をしていた時のことだ。普段はあまり立ち入らない彼のデスクの引き出しの奥に、見慣れない小さな紙袋が隠されるように置かれているのを見つけた。そっと取り出してみると、中には真新しい香水の小さなガラス瓶が入っていた。それは明らかに男性用の、洗練されたデザインのボトルだったが、葵さんが過去にプレゼントしたものでもなければ、健太さんが以前から愛用していたものでもなかった。キャップを外し、ほんの少しだけ手首につけて香りを確かめてみる。その瞬間、葵さんは息を呑んだ。そこから漂ってきたのは、あの時、健太さんのワイシャツから感じた、そして時折彼の身から微かに漂っていた、あの甘くパウダリーなフローラル系の香り、そのものだったのだ。
「…やっぱり」。全身の血の気が引いていくのを感じた。これは、偶然ではありえない。この香水は、彼が「新しい趣味」と称して出かける際に身につけているものなのだろうか。そして、この香りを好む誰かが、彼の傍にいるのだろうか。葵さんの心の中で、これまでバラバラに散らばっていた違和感という名のパズルピースが、急速に一つの形を成し始めていた。それは、認めたくない、見たくない、しかし無視することもできない、「浮気」という、あまりにも残酷な二文字だった。
しかし、香水の瓶一つでは、決定的な証拠とは言えないかもしれない。もしかしたら、本当に新しい趣味の一環で、気分転換のために購入したものかもしれない。そうやって、必死に夫を信じようとする自分と、日に日に色濃くなる疑念との間で、葵さんの心は激しく揺れ動いた。夫を疑う自分自身に対する罪悪感と、裏切られているかもしれないという恐怖。この時期の葵さんは、出口の見えない暗いトンネルの中を、たった一人で彷徨っているような、そんな精神状態だったに違いない。アイコンの変化から始まった些細な違和感が、明確な疑惑へと変わるまでのこの三ヶ月という月日は、彼女にとって、あまりにも長く、そして辛い葛藤の時間だったのである。眠れない夜を何度過ごしただろうか。鏡に映る自分の顔が、日に日にやつれていくのを感じていた。
震える指で押した番号 – 「きっと、この日です」
「もう…もう、限界でした。毎日、夫の顔色ばかり窺って、ちょっとした言葉や仕草に一喜一憂する生活に、心底疲れ果ててしまって…。眠ろうとしても、色々なことが頭を駆け巡って眠れないし、食事も喉を通らない日が続いて…このままじゃ、私自身がおかしくなってしまいそうで…」
受話器の向こうから聞こえてきた葵さんの声は、絞り出すようで、ひどく憔悴しきっていた。まるで、長いはずの電話線の先で、彼女が今にも崩れ落ちてしまいそうな気配さえ感じられた。数日後、私の事務所「赤坂アーガス」の扉を叩いた彼女は、電話の声から想像した通りの、青白い顔をしていた。目の下にはうっすらと隈が浮かび、この数ヶ月がいかに彼女にとって過酷な時間だったかを物語っていた。それでも、彼女の瞳の奥には、消えかかってはいるものの、まだ微かな光が宿っているようにも見えた。それは、真実を知りたいという、最後の望みの光なのかもしれない。
ソファに腰を下ろした葵さんは、震える手でハンドバッグから一枚の折り畳まれたメモを取り出し、テーブルの上にそっと置いた。それは、ごく普通の事務用のメモ用紙だったが、そこにボールペンで記された一筋の日付は、彼女にとって特別な意味を持つものであることが、その緊張した面持ちから痛いほど伝わってきた。
「探偵さん…これから私が言うことは、もしかしたら、馬鹿げていると思われるかもしれません。何の根拠もない、ただの女の勘、と笑われるかもしれません。でも…私には、どうしても拭いきれない予感があるんです」
葵さんは一度言葉を切り、深呼吸を一つした。そして、意を決したように、まっすぐに私の目を見て続けた。
「夫は、きっと…きっと、この日に浮気をすると思います。このメモに書いた、この日に」
その日付は、一週間後に迫った、葵さんと健太さんの結婚記念日だった。夫婦にとって、一年で最も大切に祝われるべき、愛を誓い合った特別な日。その言葉の重みに、私は思わず息を呑んだ。
「例年なら、どんなに仕事が忙しくても、夫はこの日だけは必ず時間を作ってくれていました。ささやかですけれど、二人で食事に行ったり、プレゼントを交換したり…それが、私たちの恒例だったんです。でも、今年は…今年は、『大事な出張が入ったから、その日は帰れないかもしれない』と、つい先日、そう言われたんです」
葵さんの声は、悲しみと怒りと、そして諦めにも似た感情が複雑に絡み合い、震えていた。
「以前の夫なら、結婚記念日に出張だなんて、絶対にありえませんでした。どんな重要な会議よりも、どんな大切な取引先の接待よりも、私との約束を優先してくれる人だったんです。それが…『大事な出張』だなんて…。それに、カレンダーを見てください。その日は金曜日なんです。そして、翌日は土曜日…まさか、とは思いますけど…そのまま、どこかへ…お泊りするつもりなんじゃ…?」
そこまで言うと、葵さんの目からは、堪えきれなくなった涙が一筋、頬を伝った。結婚記念日という、二人にとってかけがえのない日に、夫が他の女性と一夜を共にするかもしれないという想像は、彼女の心をズタズタに引き裂く、耐え難い苦痛であることは想像に難くない。その健気な信頼が裏切られようとしていることへの絶望感は、計り知れないものがあっただろう。
私は、葵さんの言葉の一つ一つを、遮ることなく静かに聞き続けた。彼女が吐き出す苦悩、不安、そして微かな希望。それら全てを受け止めることが、まず我々探偵の最初の仕事だ。彼女の直感、いわゆる「女の勘」というものは、長年の経験上、決して侮れないことが多い。それは、論理や理性では説明できない、しかし驚くほど的を射た「真実の兆候」を捉えることがあるのだ。
一通り葵さんの話を聞き終えた後、私は具体的な調査プランを提示した。対象日は、もちろん彼女が「予感」した結婚記念日。夫の健太さんが「出張」と称して家を出るところから、その日の行動の一部始終を徹底的に追跡、記録する。そして、万が一、その日に動きがなかった場合や、より確実な証拠を得るために、念のため、その結婚記念日の前後数日間も、彼の行動パターンに変化がないか、不審な点はないかを確認するための予備調査を行うことも提案した。
「もし…もし、私の考えすぎで、本当にただの仕事の都合で、何もなかったとしたら…その時は、私がただの嫉妬深い、思い過ごしの激しい妻だったと、笑ってください。笑って、安心させてください。でも…もし、本当に…もし、私の予感が当たってしまっていたら…私は、どんな結果であっても、その現実を、夫の本当の姿を知りたいんです。もう、こんな中途半端な気持ちで毎日を過ごすのは、耐えられませんから」
涙で濡れた瞳で、しかしそこには先ほどまでの弱々しさとは違う、ある種の覚悟を決めた人間の強さが宿っていた。恐怖と絶望の淵に立たされながらも、それでも真実と真正面から向き合おうとするその勇気に、私はプロフェッショナルとして応えなければならないと強く感じた。
我々探偵は、依頼者の心の闇に光を当てる仕事だ。時には、その光が残酷な現実を照らし出すこともある。しかし、曖昧な不安の中で苦しみ続けるよりも、たとえ辛くとも真実を知ることで、新たな一歩を踏み出すことができると信じている。SNSのアニメ風アイコンという虚像の裏に隠された、夫・健太さんの偽りのない素顔を、我々「赤坂アーガス」が必ずや白日の下に晒す。その固い約束を葵さんと交わし、調査は静かに、しかし確実に開始されることとなった。彼女の震える指で押された電話番号が、真実への扉を開く最初の鍵となったのだ。
Dデイの追跡 – アニメアイコンの夫が降り立った「現実」
調査当日、すなわち葵さんと健太さんの結婚記念日。健太さんは朝、葵さんに「出張、頑張ってくるよ」と声をかけ、いつも通り家を出た。我々の調査員は、その時から彼をマークしていた。
健太さんは会社には向かわず、都心部のターミナル駅で電車を乗り換えた。そして降り立ったのは、およそ「出張」とは縁遠い、お洒落なカフェやブティックが立ち並ぶエリアだった。彼の服装も、いつものビジネススーツではなく、先日購入したばかりと思われるカジュアルなジャケットスタイル。まるで、SNSのアニメ風アイコンから抜け出してきたかのような、気合の入ったいでたちだった。
昼過ぎ、健太さんは駅の改札で一人の女性と合流した。女性は20代半ばだろうか、若々しく華やかな雰囲気だ。二人は親密な様子で言葉を交わしながら、近くのレストランへ入っていった。ランチの後、二人は腕を組み、楽しげにウィンドウショッピングを始めた。その姿は、長年連れ添った夫婦というよりは、始まったばかりの恋人同士といった風情だった。
そして夕刻。我々が最も注視していた時間帯。二人は、そのエリアでも有名なシティホテルへと入っていった。チェックインを済ませ、エレベーターに乗り込む二人。その姿を、調査員はっきりとカメラに収めた。葵さんの「予感」は、最悪の形で的中してしまったのだ。
翌朝、二人がホテルをチェックアウトし、駅で別れるまでを確認し、我々は調査を終了した。数日後、私は調査報告書と証拠写真一式を葵さんにお渡しした。彼女は言葉もなく、一点を見つめたまま、震える手で写真の束をめくっていた。一枚一枚、夫と見知らぬ女性の親密な姿が写し出されるたびに、彼女の白い顔から血の気が引いていくのが分かった。アニメ風のアイコンで自分を飾っていた夫の、これが生々しい「現実」だった。
涙の向こうの決断 – 「新しい私」への第一歩
報告書を一通り見終えた葵さんは、しばらくの間、うつむいたまま動かなかった。やがて、ぽつり、ぽつりと嗚咽が漏れ始め、それは静かな、しかし深い悲しみを湛えた涙となった。私は何も言わず、彼女が落ち着くのを待った。
「…やっぱり、そうだったんですね。覚悟は、していたつもりだったんですけど…」
涙で濡れた顔を上げた葵さんの表情は、悲しみの中にも、どこか吹っ切れたような、不思議な清々しささえ感じられた。
「夫は、私との現実から逃げて、アニメのアイコンみたいな、キラキラした虚構の世界に生きたかったのかもしれません。でも、それは私を裏切ることでしか成り立たないものだった…」
彼女は、健太さんとの話し合いの場を持つことを決意した。そして、その結果次第では、離婚も辞さない覚悟だという。
「あのアイコンを見た時から、ずっと靄がかかったような気持ちでした。でも、今ははっきり見えます。夫が何をしたのか、そして私が何をすべきなのか」
彼女の言葉には、かつての弱々しさはなかった。真実を知ることは辛い。しかし、それは同時に、曖昧な不安や疑心暗鬼から解放され、次の一歩を踏み出すための力を与えてくれることもあるのだ。
後日、葵さんから連絡があった。健太さんに証拠を突きつけ、話し合いを持った結果、二人は離婚に向けて手続きを進めることになったという。健太さんは当初狼狽し、謝罪を繰り返したそうだが、葵さんの決意は揺るがなかった。
「不思議と、今はスッキリしています。もちろん悲しいですし、悔しいですけど、これからは自分のために生きていこうって。探偵さんにお願いして、本当によかったです」
彼女の声は、以前よりもずっと明るく、力強かった。夫の「アニメ風自画像」という虚像に惑わされ、傷ついた30歳の妻。しかし彼女は、その痛みを乗り越え、現実と向き合い、自らの手で未来を切り開く決断をしたのだ。
我々探偵の仕事は、時に残酷な真実を白日の下に晒すことだ。しかし、それが依頼者の新たな人生の扉を開く一助となるならば、これに勝る喜びはない。葵さんのこれからの人生が、実り多きものとなることを、心から願っている。